99年9月9日
2024年9月9日は昭和に換算すると、
昭和99年9月9日になるそうです。
9が並びとても苦しみそうな日に、
僕の祖母が103年の生涯に幕を閉じました。
今日は「人の死」にまつわるお話です。
(苦手な人はブラウザバックを推奨します)
僕の祖母「髙橋(旧姓松田)チヨ子」は、
昭和が始まる5年前、
大正10年7月25日にこの世に生を受けました。
この年は「ワシントン会議」があった年らしいです。
歴史の流れを感じますね~
軍人であった父(僕にとっての曾祖父)に
厳しく育てられたかと思いきや、
話を聞いていると、
野を駆け山を駆け、
冬はスキーに没頭し、
楽しく女学校時代を過ごしたようです。
チヨ子にとって運命が大きく変わるのは、
昭和6年(1931年)チヨ子が10歳のとき、
「満州事変」がはじまり翌年日本は、
「満州国建国宣言」をします。
曾祖父も軍の一員として満州に渡り、
女学校を卒業したチヨ子も後を追って、
満州で暮らすことになります。
そこで軍の施設でタイピストとして働いていた時期が、
チヨ子の人生の大きな部分を占めていたように思います。
後述しますが、僕は0~6歳までチヨ子と暮らしていました。
そのときにこの「満州時代」の話をよく聞かされたのですが、
そのときの経験をとても楽しそうに話すので、
僕は小学校で歴史の勉強をするまで、
「戦争」や「満州国」というのが、
大人の大規模なお遊戯会だと思っていたのです。
学校教育って大事ですね。
ただこの6歳のときまでの記憶が、
僕にとってはとても重要で、
人によって「歴史の見え方が違う」
ことを体感出来たように思います。
・タイピストとして軍の重要な情報を任されていた
・満州で住んでいた家が襲撃されて屋根裏部屋に隠れた
・大連まで職場の友達と旅行に行ったこと
・煌びやかな舞踏会で踊っていたこと
色々な話を聞かされましたが、
どれもチヨ子にとっては大切な思い出だったようです。
そんな生活が終わりを迎えるのが、
昭和20年(1945年)チヨ子が25歳のときです。
戦況がわるくなった日本軍は満州国から、
徐々に人を撤退させます。
満州から日本に向かう船にチヨ子は親友の方と一緒に、
満州の思い出と少しの私物を持って乗りこみます。
そして船が日本に向かう途中、
船は魚雷に触れ沈没します。
チヨ子は海の上に放り出され、
12時間海の上を漂います。
そのときに生きることを諦めていたら、
僕の親の世代は誰一人として生まれていなかったことを
考えると生命の誕生って不思議ですね~
漂流の後、日本軍の船に助けられたチヨ子は、
すぐに日本に戻ることが出来ず、
救助された人達とシンガポールで数週間を過ごします。
そこに一緒に船に乗った親友はいなかったそうです。
船が沈められてから一か月以上経って、
やっと日本に戻ったチヨ子がまず向かったのが、
親友の実家のある岡山だそうです。
そこで親友の方の最後の姿を報告して、
岡山の温泉で一晩過ごした後に、
チヨ子は秋田に戻ろうと決意します。
空襲で焼け野原となった東京を経由し、
秋田に戻ってきたチヨ子を待っていたのは、
結婚するはずだった男性の「戦死」の報告でした。
このときにチヨ子がどう思ったのか・・・
それを語ることはありませんでした。
チヨ子だけのものだったのでしょう。
ただこの一連の流れ・・・
船の沈没→婚約者の戦死
に関しては、僕は僕で思うことがあって、
ほんのちょっと何かが違うだけで、
「僕は生まれていなかったのだなぁ」
ということです。
なんなら戦争が起こらなかったら、
チヨ子は婚約者の方と結婚しているはずですからね。
これがチヨ子の人生の最初の25年間に起こったことです。
激動の人生ですね。
その後の人生はあまり本人の口から語られることがなかったのですが、
僕の祖父にあたる久二と結婚し、5人の子宝に恵まれます。
(そのうちの一人が僕の母ですね)
貧しいながらも懸命に子育てし、
時には近所のお子さんを住み込みでお世話をしていたようです。
(葬儀にも参列してくれました)
そして昭和58年(1983年)チヨ子が62歳のときに、
4人目の孫として、僕が爆誕します\(^o^)/
生後間もなく、チヨ子に預けられた僕は、
チヨ子を母親がわりに育てられます。
最初は祖父・祖母・僕の3人暮らしだったのですが、
僕が3歳のときに祖父がなくなり(なんなら第1発見者!)、
僕が幼稚園に入る頃には2人暮らしになりました。
このときに戦時中の話を色々聞かせてもらいました。
その特殊な経験が今の僕を形作っているのでしょう。
昭和から平成に変わった年(1989年)、
幼稚園から小学校に上がるタイミングで、
僕は秋田市で母と暮らすことになります。
当時6歳だった僕はこんなことを思ったことを、
今でも覚えています・・・
「6歳まで育てられた恩を返そう。婆ちゃんのことは僕が守る」
なんて健気で可愛い6歳でしょう!(今も変わってませんね~笑)
そこからは離れて暮らすことになりますが、
母が夜勤で家を空けるときは、
チヨ子がバスに乗って秋田市まで来ていましたし、
僕が夏休みや冬休みのときは、
2~3週間の長期間「婆ちゃんの家」で過ごしていました。
でもそれも僕が小学生のときまでで、
中学生になると一人で過ごせるようになりましたし、
長期休みも部活やなんやら忙しく、
お盆と正月に2~3日泊まるだけになってしまいました。
こういう風に書くと後悔しているように見えるかもしれませんが、
そんなこともなくて・・・(笑)
婆ちゃんは婆ちゃんで、
「先月京都さ行ってきた~ほら~お土産だ~!」
と旅行のお土産をよくくれましたし、
(僕が旅行に行くのは確実に婆ちゃんの影響笑)
近所の人達を家に招いて、
よく婆会を開いていました。
僕が祖母の元を離れてから大学を卒業して秋田に戻ってくるまでの、
約20年間は祖母にとって一人で寂しかった部分もあるかもしれませんが、
一人で自由気ままに楽しく生きていた、そんな気がします。
僕が「秋田で働くか~」と思ったのは、
確実にチヨ子の影響が大きくて、
チヨ子の家が「武家屋敷」なのですが、
僕のことを溺愛しているので(笑)、
「立秋に継がせる~」と事あるごとに言ってましたし、
僕は僕で6歳のときに立てた誓いがあるので、
「なるべく近くで暮らしていたいなぁ~」
と思ったからですね。
僕が秋田に戻ってきたのが、
昭和83年(2008年)のことなのですが、
それからは1か月に2~3回は婆ちゃんの住む角館に行って、
お茶をしたりご飯を食べたりしていました。
行く前には毎回電話をしてから行くのですが、
家の門の前で絶対に待っていてくれました(笑)
お盆とお正月には1~2泊して過ごすようにしていて、
この時はこの時で良い時間の過ごし方が出来たなぁ~
と我ながら思います。
状況が変わったのが、昭和89年(2014年)
足腰が弱くなったチヨ子は施設に入ることになります。
とは言っても、このとき93歳だったので、
それまで一人暮らしをしていたことを考えると、
ここまで元気で過ごして凄いなぁ~と思います。
そこからは毎週のお休みの度に、
施設にお邪魔してお話をしていました。
たまに外出する機会があれば、
こんな写真を撮ったり⇓
これは「94歳の誕生日プレゼント」のときの写真です!
「死ぬまでに人力車に乗ってみてな~」と言っていたので。
毎週角館に行って、
祖母とお話をする。
そんな日々が10年間続きました。
昭和93年(2018年)塾を作るときは、
心配をかけたくない思いから伝えていませんでした。
それでも会う度に、
「ご飯食べてらか~、今日は仕事休みだか~?」
と心配してくれました。
だんだんと話す内容は、チヨ子の昔話になりました。
同じ話を何度も何度も話すようになりました。
去年くらいから自分の年齢がわからなくなりました。
今年に入ってからは、僕の名前を忘れるようになりました。
それでも帰るときには、
「運転気を付けれな~」
と心配してくれました。
今年の8月13日、お盆を過ごすために角館に向かう途中に、
体調がわるくなり病院に入院することになりました。
毎週行くところが、施設から病院に変わりました。
そのときには反応があるものの会話は出来ませんでした。
8月31日体調が急変し、深夜に病院に呼ばれました。
そこから秋田市と角館を往復する日々が始まりました。
そして99年9月9日(月)
祖母が大好きだった角館のお祭りの最終日
賑やかなお祭りのお囃子を鎮魂歌にして、
103年間の生涯に幕を閉じました。
大正→昭和→平成→令和と、
4つの年号を過ごした、
大往生の人生だったと思います。
9月に入ってから人工呼吸器に繋がれ、
いつも苦しそうにしていた姿とは全く違い、
棺に納められたチヨ子の顔は、
びっくりするくらい安らかでした。
その顔を見たときに感じたのは、
悲しみでも喪失感でもなく、
満足感であり達成感です。
祖母は祖母で天寿を全うし、
僕は僕で自分の人生を犠牲にすることなく、
祖母とちゃんと向き合えたと思います。
9月12日(木)火葬と葬儀が行われたのですが、
親族代表として葬儀に参列していただいた皆様の前で、
挨拶をさせてもらいました。
その挨拶を持って、
6歳のときに心に誓った想いを、
達成することが出来たと思います。
もちろん細部では小さな後悔もあって、
「元気なうちに一緒に金沢行きたかったな」とか
「中国にも連れて行ってあげたかったな」とか
思うところはあるのですが、
それでも僕は僕なりに祖母をしっかり送り出すことが出来ましたし、
祖母は祖母でそんな僕を誇りに思ってくれているという、
確信があります。(だからそれで良い)
僕は自分の人生に思うことは多々ありますが、
(そしてそのいくつかはネガティブなことですが笑)
「6歳のときに立てた誓いを35年経って実現出来た」
ということは生涯誇りに思います。
祖母の人生の最後の1/3を共に過ごすことが出来て、
とても幸せでした!!ありがとうチヨ子!!
と、これで「99年9月9日」は終わります。
「塾のブログで何を書いてるんじゃ!」と思われることは、
重々承知の上で今日は書きました。
誰かたった一人でもいいので、
このブログを読んで、チヨ子のことが心の片隅に残ったり、
親・祖父母との死別への向き合い方に思うことがあったり、
そんな風に感じてもらえたらいいなぁと思って、
書くことにしました。
チヨ子が海の上で漂って諦めなかったことが、
僕の命に繋がったように。
チヨ子の経験したことが多様な価値観が、
僕の考え方を形作ったように。
この塾を通して僕の考え方や経験が、
誰かの人生をちょっと先に進めるために、
繋がっていけたら嬉しいなぁ~
と思います。
そんな姿を見せて、
安心させることが出来るように。
昭和99年9月22日(日) チヨ子の孫より